それは、意志や気持ちを持つ方として、また、私達が存在を楽しんでいるのを「善し」とされた神様が、私たちを愛で、慈しんでくださる、親そのもののような気持ちだからだと思います。
これを逆に、私達が親を愛でるとか、神様を愛でるとは、何かしら言いにくい気がします。もしかしてこれは、まだほんの5才の子どもが、骨董の逸品を前にして、「これは珍品だねー」などと言う事に等しいのかも知れず、だから私達も、目上とか神様を愛でるとは言いにくいのでは、と推察します。
同じ「愛」という字を使っても、「愛でる」と「愛する」では内容にも違いがあります。今、聖書を片手に、少し愛についてご紹介しましょう。
新約聖書マタイ福音書の中に、律法学者がイエスを貶めようと、どの律法が1番大切かと質問しました。イエスは答えて、「心を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛せよ。これが最も重要である」とした上で「第2も同じく重要である。隣人をあなた自身のように愛せよ」と仰せになりました。(参:22・37~39)
このように、「愛」なら、愛でるのように格下も格上もなく、私達は自分が痛い想いをしても他の人に尽くすのです。