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ゆるし・いやし

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

「他人に悪いことをしてはいけない。なぜなら、された人はそれをゆるさないし、決して忘れないからだ」と、子どもの頃の私は思っていた。おそらく私自身が、つらかったことを忘れられない子どもだったからだろう。

人の心の中には「悲しみの層」があるように思う。誰にも言わず、自分の中にたたみ込んだ苦しい思い出が積もった地層のようなものだ。このつらい記憶の地層を抱えているのは重く苦しい。全て忘れて何もなかったことにしたい、とさえ思う。

だが不思議なことに、この地層は汚れた水を濾過して清らかな水に変えてくれる大変重要なものなのである。つらい経験やその記憶が、人の中で精妙なろ過装置になって、他人への優しい感情を生むのだ。

「僕にはすごく優秀な兄がいてね、学生時代の僕はいつも教師から兄と比べられて、本当につらかったんだ。だから僕の生徒には、兄弟の話は絶対にしないんだよ」と言った中学の先生がおられた。これはまさにつらい経験が濾過されて、思いやりを生んだ例の一つに感じられる。この先生が生徒に思いやりを持って接する時、先生自身も古い悲しみから癒やされておられるのではないだろうか。

人は、自分のことを忘れ、誰かを癒やそうとした時に、その思いによって初めて自分が癒やされる存在であるらしいのだ。

人がつらい記憶を忘れないでいるのは、決して復讐などのためではなく、いつかその記憶を活かして、善きものを生むためなのかもしれない。そう思うだけで、私もまた癒される。