とりなし

崔 友本枝

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祈りは、自分の必要を満たすために捧げる時と、他の人のために捧げる時があります。祈りを必要としている人のために神に願うことを「とりなしの祈り」と言います。

モーセがイスラエル人のために祈って海が2つに割れたように、神と人々の仲介者になって、危険な状況からの解放や、病の癒しを根気強く祈ることです。すぐに応えられることもありますが、何十年もたって返事が来ることもあります。私は子供の時に祈ったことが30代になって応えられた経験があります。

小学生の頃、日曜のミサで朗読される聖書の意味を知りたくてたまりませんでした。でも、どんなに真剣に聞き耳を立て、筋を追っても最後は結局意味がわからなくなりました。子どもにとって聖書は難しすぎたのです。私は「いつか聖書の意味が分かる日がきますように。聖書の勉強をしたいです」と祈りました。1度だけでなく、何度も祈りました。大人になり、いつしかこのことを忘れていましたが、ある日、ふと、祈りの答を手にしていると気付いたのです。私は大学で神学の勉強をしていたからです。「子どもの時の祈りに主は応えてくださった!」とびっくりしました。

こんな風に何十年もかかることもあります。しかし、「祈り求めるものはすべてかなえられるものと信じなさい。そうすればその通りになる」(マルコ11・24)と聖書にあるように、神さまは私たちの善だけを望んでおられるのですから、祈りをすべて聞いておられ、答は必ず来ます。自分の望む形とは違うこともありますが、その人に一番良いものを与えてくださるのです。希望を失うと大変な損をしてしまいます。

とりなし

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

"イエスのみ心の祭日"を翌週にひかえた日のことだった。

私は不安になると調布のチマッティ神父の遺体が安置された地下聖堂に行ってとりなしを願う。地下聖堂ではミサが終わったばかりで、司祭が「小聖堂のイエスのみ心のご像が盗まれた」と嘆いておられるのを耳にした。

私は、司祭に「私の家に、み心のご像がありますので、差し上げます」と申し出た。司祭は「どのぐらいの大きさ?」と聞かれたので、「90センチぐらいの高さです」と答えた。司祭は「ご像を取りに行きます」とおっしゃった。3日後、私の住まいの近くにあるコンビニの前でお渡しすることになった。

その日は大雨で、み心のご像をビニールで覆い、コンビニの店長さんに頼み、レジのそばに置かせてもらった。まもなく司祭が現れ、ご像を渡した。ご像を見て司祭の顔は輝いた。丁寧に車の荷台に入れて帰って行かれた。

このご像が私のところに来るきっかけは、所属教会の大掃除をしていた時に香部屋の奥から出てきたものだ。普段は聖書の勉強会の部屋に置いてあった。主任司祭に「このご像をください」と言ったところ、「よくお祈りするのですよ」と言ってくださった。教会から家までみ心のご像を担いで帰宅した。それから3年間、このご像は苦しみを共にしてくださった。

イエスさまはすべての人に愛を注ぐ存在なのだと思った。

私の洗礼名はガブリエル。神さまから受胎告知のために遣わされた天使だ。この名前をいただいてから私の役目は、とりなし・・・というよりも「使い走り」が多い。誰かのために何かを届けたり、誰かのために頼みに行ったり...。「使い走り」、マリアさまが私に与えてくださった役目だと思っています。


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