
まさに、イエスは、私たちの罪の「とりなし」をなされた方であると言うことができます。
教会では、古くから「とりなしの祈り」という一連の取り次ぎを願う祈りが捧げられています。イエスは、すべての人間、とくに罪びとのために、御父のもとで「とりなし」をなさる唯一の仲介者であり、「つねに、人々のためにとりなしをしておられ、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる方である」と聖書は、説いています。(ヘブライ7・25)また、他の人のために、とりなしを懇願するというのは、神の憐れみに結ばれた人たちの特徴的な行いであります。
神は、すべてのキリスト者をとりなしの祈りをする者として召されています。
キリスト教徒一人ひとりが、みな、積極的にとりなしをすることは、神の願いにかなったことであり、素晴らしい特権であると言えましょう。

宗教家である神父は、一般的にそういう権能も能力もないと、わたしは思います。やはり、紛争処理は、警察のような専門機関に任せるべきではないでしょうか。
宗教家としての執り成しとは、利害関係の相克する双方の言い分を聞いた後で、神さまに「どうしたらいいでしょうか」とまずお祈りします。もし神がインスピレーションを与えてくだされば、それに従って、両者に和解を説きます。足して2で割るというほど合理的にはできないが、人間にとって一番大事な心構えは、愛すること、赦すこと、受け入れることと説き、お互いが和解する気持ちになったならば、10ある利益を半分にして、五分五分ではどうでしょうか、と諭します。
神さまがすべてをご覧になっていますので、自分が少し損をしたと思っても、相手が少しでも良くなればそれで良いと、落ち着いて決断するなら、その人は神さまからどれほど祝福されるでしょうか。人に与えて損をしても、報いは数倍になって戻ってくるでしょう。