とりなし

熊本 洋

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「とりなし」とは、「対立する2者の間に入って、うまく折り合いをつけること」を意味しますが、キリスト教の立場から言うと、「仲介者としての神と人間との間をとりもつこと。また、他の人のために神に祈ること」という、より深遠な意味を持つことになります。

聖書の中の登場人物の多くは、その時代その時代で、神と人間の間を取りもっていますが、その中の最たる人物がイエス・キリストであります。新約聖書のヘブライ人への手紙の著者・パウロは、イエスは、私たちの罪の「とりなし」をしてくださる祭司である、と言っています。祭司とは、神殿で神に仕える働きをする人のことですが、その重要な働きは、神と人との間に立って「とりなし」するということであります。

まさに、イエスは、私たちの罪の「とりなし」をなされた方であると言うことができます。

教会では、古くから「とりなしの祈り」という一連の取り次ぎを願う祈りが捧げられています。イエスは、すべての人間、とくに罪びとのために、御父のもとで「とりなし」をなさる唯一の仲介者であり、「つねに、人々のためにとりなしをしておられ、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる方である」と聖書は、説いています。(ヘブライ7・25)また、他の人のために、とりなしを懇願するというのは、神の憐れみに結ばれた人たちの特徴的な行いであります。

神は、すべてのキリスト者をとりなしの祈りをする者として召されています。

キリスト教徒一人ひとりが、みな、積極的にとりなしをすることは、神の願いにかなったことであり、素晴らしい特権であると言えましょう。

とりなし

越前 喜六 神父

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わたしは、神父になって50年以上経ちますが、厳密にいえば、「とりなし」ということをやったことがない。相争っている2人の仲を取り持って、両方の主張や言い分を聞いて、足して2で割るという仲介を経験したことがないからです。

わたしは、職業が教師だったもので、物事の道理や事物の良し悪し、モラルや道義の有無については、よく話してきました。その中で、利害関係が相克するようなケースにぶつかった時は、友人に法律の先生や弁護士などのプロがいましたので、相談はしたことがあります。紛争を処理する立場の弁護士たちは、それなりの専門の知識や道具を持っているので、それをもって問題の処理に当たります。

宗教家である神父は、一般的にそういう権能も能力もないと、わたしは思います。やはり、紛争処理は、警察のような専門機関に任せるべきではないでしょうか。

宗教家としての執り成しとは、利害関係の相克する双方の言い分を聞いた後で、神さまに「どうしたらいいでしょうか」とまずお祈りします。もし神がインスピレーションを与えてくだされば、それに従って、両者に和解を説きます。足して2で割るというほど合理的にはできないが、人間にとって一番大事な心構えは、愛すること、赦すこと、受け入れることと説き、お互いが和解する気持ちになったならば、10ある利益を半分にして、五分五分ではどうでしょうか、と諭します。

神さまがすべてをご覧になっていますので、自分が少し損をしたと思っても、相手が少しでも良くなればそれで良いと、落ち着いて決断するなら、その人は神さまからどれほど祝福されるでしょうか。人に与えて損をしても、報いは数倍になって戻ってくるでしょう。


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