私が、この取り成しの祈りに驚くのは、命の書に名が書き記されていることは、私達にとって、何よりも大切なことであると考えるからです。
イエス様ご自身、宣教から帰ってきた弟子たちに次のように仰いました。「悪霊があなた方に服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」。(ルカ10・20)モーセは、イスラエルの民の救いの為なら、自分の名が命の書から消されても構わないと神様に言っているかのようです。
イエス様は、旧約のモーセのように、精神的には砂漠のような現代世界に生きる私たちを導いて下さっています。取り成し手としてのイエス様の姿は、ヘブライ人への手紙の中に次のように書かれています。「このイエスは、ご自分の前にある喜びを捨て、恥をも厭わないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。(12・2)
イエス様は、この世の名声などを物ともせず、ただ、私たちの救いの為に、ご自分の人生を生きて下さいました。私も、イエス様を見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜くことができたらと思います。
うまくいく時は感謝されるが、うまくいかないと恨まれて悪口をいわれたりするので、私は高校生くらいになると、大切な時間を他人のために惜し気もなく使う父母をもういいかげんやめたらいいのにと横目で見ていた。
「なして、そげんに、他人のことに関わるとね?」と母にきいたことがある。
「そりゃ、わたしんどんがごと、学問もなか、地位も名誉もなか人間に相談に来るっていうことはよほどのことっち思うて、一はだ脱がんばっち、思うとたいね。こないだ、ラジオば聞いとったら、人間ちいう字はさ人の間に立つっち書くけん、他人が争いに巻き込まれた時にゃ、間に立って助けんばよっちいいよったとよ。偉か人がさ。」とすました顔をして答えた。
そういう私も夫と結婚して、今井の家族と同居すると、姑と大姑が水と油、とにかく仲が悪かった。若嫁の私は実の母に相談した。
「お互いがあがに悪口ばいいに来ても、絶対にあいづちは打たんこと。その代わり、お母さんが少しでもおばあさんのことをほめたら、100倍、1000倍にしておばあさんに耳打ちしたらよか。その逆も同じ。なんの、少しくらい嘘が混じっても、嘘も方便。神さまもゆるしてくれるとよ」と母は笑いながらいった。