とりなし

阿南 孝也

今日の心の糧イメージ

「子どもがやる気にならなければ、どうしようもない」と教師や親はよく口にします。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という有名なことわざまであるくらいです。ところが先日、これまでの考え方が間違っていたことを示す聖書の記述を発見して、ガーンと打ちのめされてしまいました。マルコによる福音書に次のような奇跡が記されているのです。

大勢の人が集まってきたので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスがみ言葉を語っておられると、4人の男が中風の人を運んできた。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れていくことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(マルコ2・2~5)

4人と病のために寝たきりとなった人との関係は記されていませんが、よほど親しい人なのでしょう。器物損壊という無茶を冒してでも、イエスがおられるこのチャンスを逃すまいという必死さが伝わってきます。4人の精一杯の行動の結果、イエスの力が働いて、病人は癒されたのです。「すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」という恵みをいただくことができたのです。(同2・12)

事件や事故を起こしたわが子のために、被害者に深く頭を下げて必死で謝罪する姿を見て、子どもが回心したという話を耳にします。私たち自身に子どもを変えるだけの力がなかったとしても、全身全霊を注ぐことによって、神の力が働いて、子どもたちが変えられていく、このことは真実なのだと思います。教師や親が変われば子どもは変わるのです。

とりなし

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

3人の不思議な旅人はアブラハムのもてなしを受けた後、ソドムを見下ろすところまでやってきました。アブラハムも見送りに、一緒に来ていました。ここで、主は言われます。「私はアブラハムを大きな国民とする。世界中の国民がアブラハムによって神との契約に入るためである」と。

そして、主は言葉を続け、ソドムとゴモラの罪は非常に重いとの訴えが私の耳に入って来るので、それを調べに行くのだと仰います。

そこでアブラハムは主の御前に進み出ます。これぞ、アブラハムの面目躍如といったところです。

 

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも、その50人のために、町をお許しにはならないのですか。あなたがそんなことをなさるはずはございません」。

主は言われた。「もし、ソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために町全部を許そう」。

アブラハムは更にくい下がり、「塵芥に過ぎない私ですが、もし30人しかいなくても・・」とか、少しずつ人数を減らしてゆき、「主よ、どうかお怒りにならず、もう1度だけ言わせて下さい。もしかすると、10人しかいないかもしれません」。

主は、「その10人のために私は滅ぼさない」と言われ、去って行かれた、とあります。(ここまで・参:創世記18章)

こうして、必死で執り成したわけですが、何ともユーモラスで人間味がありますね。

新約聖書では、カナの婚宴に招かれた主イエスとマリア様の葡萄酒をめぐる執り成しもあります。

そして、私達自身も、今は天にいる聖人たちがきっと執り成してくださっているでしょうし、私達も互いに祈りながら執り成しあっているのではないでしょうか。


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