とりなし

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

結婚を間近に控えたある方から、検診で腫瘍が見つかって、手術を受けることになり、医師からは「子供はあきらめるように」と告げられたと、悲痛な思いで相談されたことがありました。

彼女は、伴侶になる方にも気を遣って、1人で悩み、途方に暮れていました。私には何が言えるのか、言葉も見つかりませんでした。

数日後の日曜日、彼女と一緒に御ミサに与った時のことです。聖体拝領の前に「私には、彼女のために一心に祈ることしかできない」と痛感し、「共にご聖体のイエス様に願いましょう」と、その場でメモ書きをして彼女に渡しました。安易な慰め言葉は無責任で、却って他人を傷つけることもあると感じましたが、その時の私には不思議な確信がありました。

数日後、予定通り、彼女は手術を受け、手術は無事に終了しました。その結果、彼女は、医師から「うまくいきました。子供も産めますよ」と言われたそうです。私にとって、この知らせは、「とりなしの祈りが聴き入れられた」という体験であり、大きな喜びでした。

結婚後、彼女は遠方に引っ越してしまわれましたが、何年も経ってから、家族と共に、わざわざ私を訪ねて下さいました。「お祈りのおかげで...」と、2人の子供を連れて来て下さったのです。彼女の心にも、あの日曜日に、共にご聖体に祈った思い出は刻まれていたのだとわかりました。私も、修道院の廊下を元気いっぱいに走り回る子供たちと出会い、「神様のなせる業」だと、心から感謝しました。

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち2人が地上で心を1つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださるのです。」(マタイ18・19)

とりなし

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

先祖の霊に祈る人は意外と多いようである。友人の1人は、ご主人が癌を患われた時、亡くなった曾祖父母にまで「あなたの孫なんですから・・病気を治してください」と祈っていた。また別の友人は、陽あたりの良い出窓を清め、亡くなった両親の写真を置いて、お花を供え、祈っている。彼女の素晴らしいところは、自分にあまり親切でなかったお姑さんの写真もちゃんと置いていることで、こんな誠実なお嫁さんに心をかけなかったことを、今頃お姑さんは後悔しているかもしれない。彼女は写真に、朝には「お早うございます」、夜には「おやすみなさい」と、ごく自然に挨拶をし、話かけている。こんな風に大事にされれば、亡くなった方の霊も、この家族が助けを求めた時には、神にとりなしをしてくれるのではないだろうか。そしてそれを信じて、彼女もまた、心が安らぐのだろう。

友人たちの祈りは、彼女たちの良き心ばえから生まれているように思う。そして、その心ばえの中にあるものは、亡くなった後も変わらずお互いの間にある家族の愛情である。死後の世界も、家族が住んでいて、そこから見守ってくれているのだから、彼女たちにとっては、親しく近い存在であるに違いない。

幼い頃の私も、聖母マリアによくお祈りをした。母なる方は子どもに心を寄せてくださり、とりなしをしてくださるのだと、誰に教えられなくても知っていたようだ。その時の幼い素直な気持ちを、友人たちの中に見つけられるように思うのである。信じる心や祈りに様々なかたちがあり、だがそれらは同じ祈りであるのだと気づく時、世界と人々は、親しく一つになっているように思う。


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