数日後、予定通り、彼女は手術を受け、手術は無事に終了しました。その結果、彼女は、医師から「うまくいきました。子供も産めますよ」と言われたそうです。私にとって、この知らせは、「とりなしの祈りが聴き入れられた」という体験であり、大きな喜びでした。
結婚後、彼女は遠方に引っ越してしまわれましたが、何年も経ってから、家族と共に、わざわざ私を訪ねて下さいました。「お祈りのおかげで...」と、2人の子供を連れて来て下さったのです。彼女の心にも、あの日曜日に、共にご聖体に祈った思い出は刻まれていたのだとわかりました。私も、修道院の廊下を元気いっぱいに走り回る子供たちと出会い、「神様のなせる業」だと、心から感謝しました。
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち2人が地上で心を1つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださるのです。」(マタイ18・19)
友人たちの祈りは、彼女たちの良き心ばえから生まれているように思う。そして、その心ばえの中にあるものは、亡くなった後も変わらずお互いの間にある家族の愛情である。死後の世界も、家族が住んでいて、そこから見守ってくれているのだから、彼女たちにとっては、親しく近い存在であるに違いない。
幼い頃の私も、聖母マリアによくお祈りをした。母なる方は子どもに心を寄せてくださり、とりなしをしてくださるのだと、誰に教えられなくても知っていたようだ。その時の幼い素直な気持ちを、友人たちの中に見つけられるように思うのである。信じる心や祈りに様々なかたちがあり、だがそれらは同じ祈りであるのだと気づく時、世界と人々は、親しく一つになっているように思う。