2018年02月19日の心の糧

とりなし

小林 陽子

今日の心の糧イメージ 「とりなし」とは、ふつう人の間に立ってその場をうまくとりはからうこと、 仲介することをいいますが、 わたしには、失敗などして、とりなしてもらったことはあっても、人間関係のトラブルをうまくとりなして、まるく収めるなどという自信はありません。

そう思うわたしの頭のなかには、日常生活の人間関係のことしかなかったのです。

まど・みちおさんの詩が好きでおりにふれて読んでいます。

彼の詩は、自分を世界の中心におく自己表現からはるかに遠く、 蚊やヤギや魚、月や星、 生きもの、生きていないものたちを、ひとしく「在るもの」としてうたいます。「ぼくが ここに」という詩のなかで、

どんなものが どんなところに  いるときにも
その「いること」こそが なににもまして
すばらしい こととして

とあり、動物でも植物でも、石ころでもボタンでも、いつくしまずにはいられない。

そうして、そのいつくしみの底のほうにはたとえようもなく悲しみが滲んでいるのです。

神さま、この悲しみはあなたのものではないでしょうか。

「他の生物は、腹がすいた時に他の生物を自分のなかに取り入れるのに、人間は、腹がへろうがへるまいが、その尽きることのない快楽の追求のために、生きているものを殺したくなってしまう」と、まどさんは言っています。

わたしたち人間は、他の生きものにたいして心の痛みを覚えずにはいられません。

神さまからいただいた生命に与っているわたしたちにとって、他の生きもの達の存在は生命のふるさと、痛みそのもの。

とりなしをしてくださるかたはどなたでしょう?

十字架の上で死んでくださったあのかた。

生きてあるすべてのもののとりなしとして。

2018年02月17日の心の糧

とりなし

橋本 勲 神父

今日の心の糧イメージ 大地に2本の足をそろえて立ち、そのまま両手を真横に広げるとたちまち十字架が出来上がります。

十字架はこんなにも人間になじむ形なのです。

ただ、人間の実際の考え方や行動の傾向としては、なかなか十字架の形にならないことがあるのも事実です。

右と左、2つの相反する考え方があれば、両手を広げて必死に繋ごうとするより、どちらか一方に立てこもって、他を排除しようとします。

この世に自分と似たような考え方をする者はいても、同じ考えの人はいません。いると思うのは錯覚です。ですから、手を伸ばして結び合うしかないのですが、その錯覚の中で、武装し立てこもってしまいます。国同士の争いから、個人のいさかいまで、世界を砂漠にしてしまう究極の原因はこの立てこもりにあります。

これが、どうしてもこの世が十字架を必要とする理由です。

人間は人の間ですから、間または間が無くなったら、人間崩壊となります。

キリスト教は神さまが神の座に立てこもることなく、その座にこだわらずこの世界に来られたということを説きます。天と地のつなぎです。これをクリスマスで記念します。

最後はイエス・キリストご自身、十字架に張り付いてしまわれるのですが、これは立てこもりではありません。天と地、右と左のつなぎであり、とりなしの断固たる形であり実践です。

何もわざわざキリストの名を出さなくとも、思わず知らず人間になじんでしまうこの十字架と、その形が示す実践は、世界のあちこちに見られます。

大きな十字架、小さな十字架、心ある方々がその形を持って、あるいは実践をもって、わが身に刻みつつある十字架に、今1度目を向けてみたいものです。


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