まさに、イエスは、私たちの罪の「とりなし」をなされた方であると言うことができます。
教会では、古くから「とりなしの祈り」という一連の取り次ぎを願う祈りが捧げられています。イエスは、すべての人間、とくに罪びとのために、御父のもとで「とりなし」をなさる唯一の仲介者であり、「つねに、人々のためにとりなしをしておられ、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる方である」と聖書は、説いています。(ヘブライ7・25)また、他の人のために、とりなしを懇願するというのは、神の憐れみに結ばれた人たちの特徴的な行いであります。
神は、すべてのキリスト者をとりなしの祈りをする者として召されています。
キリスト教徒一人ひとりが、みな、積極的にとりなしをすることは、神の願いにかなったことであり、素晴らしい特権であると言えましょう。