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とりなし

熊本 洋

今日の心の糧イメージ

「とりなし」とは、「対立する2者の間に入って、うまく折り合いをつけること」を意味しますが、キリスト教の立場から言うと、「仲介者としての神と人間との間をとりもつこと。また、他の人のために神に祈ること」という、より深遠な意味を持つことになります。

聖書の中の登場人物の多くは、その時代その時代で、神と人間の間を取りもっていますが、その中の最たる人物がイエス・キリストであります。新約聖書のヘブライ人への手紙の著者・パウロは、イエスは、私たちの罪の「とりなし」をしてくださる祭司である、と言っています。祭司とは、神殿で神に仕える働きをする人のことですが、その重要な働きは、神と人との間に立って「とりなし」するということであります。

まさに、イエスは、私たちの罪の「とりなし」をなされた方であると言うことができます。

教会では、古くから「とりなしの祈り」という一連の取り次ぎを願う祈りが捧げられています。イエスは、すべての人間、とくに罪びとのために、御父のもとで「とりなし」をなさる唯一の仲介者であり、「つねに、人々のためにとりなしをしておられ、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる方である」と聖書は、説いています。(ヘブライ7・25)また、他の人のために、とりなしを懇願するというのは、神の憐れみに結ばれた人たちの特徴的な行いであります。

神は、すべてのキリスト者をとりなしの祈りをする者として召されています。

キリスト教徒一人ひとりが、みな、積極的にとりなしをすることは、神の願いにかなったことであり、素晴らしい特権であると言えましょう。