目と耳と心を澄まして、自分でも求めているものが、はっきりと具体的な言葉にはならないようなことをじっと待っている、あるいは時が来るのを待っている。それが求めるということのような気がします。そして、そのようにして何かを求めて待つという姿勢は、結局は祈りそのものではないかと思います。
祈りながら待つ、ということは、もう全てを天にお任せして、自分では殆ど忘れてしまっている、ということでさえある、そんな風に思います。任せて、自分がいま果たさなければならないことに集中して日々を過ごす時、ふっと気がつくと、その求めていたことが、本当に不思議な形で満たされていることを発見することがあります。それをそのような形で満たされたのだと気がつくためにも、心を澄ましていなければならないもののようです。求めよ、さらば与えられん、というのはこのことだったと思います。