ひたすら黙ってその愚痴を聞いたあと、私は言った。
「あなたねえ、K君が生まれた時の喜びを思い出したら。そしてK君が初めて意志を持ってあなたに笑いかけた日のことを思い出したら」と。
しばらく沈黙が続いた。そして、「ごめんね。長い時間とって・・。ほんまやね、大人になってからの息子のことしか考えてへんかったわ。そうや、赤ちゃんの時のことを思い出したらいいんやわ。これからゆっくり思い出すわ」といって電話を切った。
後日、また電話があり、「いいこと教えてもらったわ。息子に腹が立ったら、赤ちゃんの時の笑顔を思い出すことにするわ」と明るくいったので嬉しく思った。
アランの『幸福論』の中の一節に「幸福だから笑っているのでは ない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい」というのがある。幼子の笑いの原点である。
そこで私は考える。マリアさまもヨゼフさまも、幼な子イエズスさまの笑顔に、明日への希望を感じたのではなかったかと。馬小屋で生まれ、先の見えない暮らしが待っている中、イエズスさまの笑顔がおふたりの光明になっていったにちがいないと・・・・。