いつか私が30代の頃、70代の女性作家と会った時、"あきらめる"という言葉について「今井さん、あきらめるということは、何も無気力になってしまうことではなくて、自分の現状をあきらかに見るということなのよ。今はまだ、若いから、その意味はわかりにくいかもしれないけれど、あなたがいつか年を重ねた時、よく分かると思うわ」といわれたことを覚えている。
30年余りの月日を経て、今、私は自分自身をあきらかに見る能力が身につきつつあることを思う。自分の体力や気力がおとろえても、まだまだ自分には出来ることが沢山あることを指を折って数えてみることがある。
今日も洗濯物を干してとり入れてたたむことが出来たし、朝、昼の食事の準備もできたし、買い物にも行けたし、電話の応対もとどこおりなく出来た。6匹の内猫の世話もした。
こうして心のともしびの原稿も書けている。
これ以上、何を望むことがあるだろうか。
何よりも年を重ねるごとに、聖書を深く読み込む力がついてきたように思う。
若い頃にはよく理解できなかったことが、70年の体験から「ああ、こういうことだったのか」とわかるようになってきた。
そして、結論として、「年を重ねることはいいものだ」と若い人たちに伝えたい。
学生の頃は実に爽やかな青年でしたが、今は暗いじめじめした印象を周囲にばらまいている学友に遭遇しました。
その逆に学生時代、ハムレットのような青年が年を重ねて再会すると何とも明るい元気な印象を与えている場合もあります。
この、年を重ねるとは何だろう、と改めて考えさせられます。
人は天に向かってつばを吐きながら生きている、とも云われますが、現在の姿は、その生きざまの集大成でもあります。人間の自由意思ではどうにもならない大災害とか不幸な偶発的な事件に巻き込まれる場合もありますが、それでも逞しく元気に生き抜く人々も沢山います。考え方、体験の解釈いかんで絶望し死んでいく人もいます。
「自分は何の為に生きているのか」、この課題が人生で一番大きな課題でもあります。この課題に答えを出すのが「年を重ねる」意味なのでしょう。年を重ねて80才になり、初めて、この人生での「生きる意味を考える必要性」に気付いても大丈夫、人間は問題意識を持てば、案外簡単に答えが出る知恵が内在していると言われています。人の身体は神の神殿と言われるゆえんです。