年を重ねる

黒岩 英臣

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もう2年!私の年令が私の師匠の亡くなった年令を超えた年数です。

本当に、月日の経つのは早いというより、もう実感するのも無理というくらいのスピードで過ぎ去ってしまうこの頃です。

ところで、皆さんは、詩人とか作曲家たちの亡くなった年令を意識してみた事があるでしょうか。これは、なかなか興味深い人間的なある側面を語ってくれるように思います。

例えば詩人の中原中也、そして私の大好きな立原道造は20代で亡くなっています。またモーツァルト、シューベルトといった天才作曲家は30代で亡くなりました。

このことに触れて、昔、私の作曲論の先生だったケタさんは、彼らの晩年と言う言葉を使っていました。

なーるほどー!!つまり、20代、30代という、あまりに早い死によってこの世から去ってしまった彼らにとって、20幾つは私たちの70、80代をも超える完成度が備わっていたということでしょう。だからと言って、私がそのまねをしようなどとは思いませんよ。私は、年輪を重ねてじっくりと、内側から重厚さが滲んでくるタイプですから(自分で言うの?)。

その証拠に、あの大バッハをみてごらんなさい、65歳。またベートーベンをみてごらん、57歳。ほらね、昔としては、まぁ天寿でしょう?

ここで聖書の世界を覗いてみますと、旧約聖書では概ね、長寿と子孫、それに豊かな財産に恵まれるのは、神の好意を得たからだとの考えに傾きがちです。

けれども、新約聖書で私達の主、イエスの口から告げられた言葉はこれとは大分違っていて、長寿、財産ではなく、子供が親を信頼するしかないように神を信頼する、これこそ神が私達に望まれていることだという事です。

年を重ねる

片柳 弘史 神父

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わたしは、どちらかと言うと怒りっぽい方だ。物事が自分の思った通りにならないと、それを相手や環境のせいにして腹を立てる。「神父なのに、こんなことではいけない」と思っていろいろ反省しているうちに、最近ようやく気づいたことがある。それは、物事が自分の思った通りにならないからといって、いちいち腹を立てても仕方がないということだ。腹を立てている暇があれば、その状況の中で自分に何ができるかを考えた方がいい。

たとえばミサの説教のとき、「これは我ながらよくできた説教だ」と自信満々で話したのに、会衆の反応がよくなかったとする。そんなとき、「この説教のよさがわからないなんてけしからん」と会衆に腹を立てても仕方がない。説教が相手の心に響かなかったのは、相手のせいではなく自分のせいなのだ。どこがよくなかったのかを謙虚に反省し、次回からもっとよい説教ができるよう心がけるのがいい。自分の落ち度を相手のせいにして、独りよがりな説教を続ければ、会衆の心はますます離れてゆくだろう。神父が会衆に恨みを募らせ、会衆が神父に不満を膨らませれば、教会の分裂にさえつながりかねない。

そもそも、物事が自分の思った通りにならないからと言って腹を立てるのは傲慢だろう。「何事も自分の思った通りになるはずがない」ということを前提に、謙虚な心で物事と向かい合ってゆくのがいい。腹を立てている暇があれば、その状況の中で自分に何ができるかを考えるようにする。それさえ習慣にできれば、日々の生活の中での怒りは十分の一に減り、家庭や職場に平和がやって来るに違いない。現実を自分に合わせることはできなくても、自分を現実に合わせることはできるのだ。


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