年を重ねる

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

ヨハネ・パウロ二世は、「空飛ぶ教皇」と呼ばれ、世界中に平和の使者として飛び回っていた。晩年、パーキンソン病を患いながらも、それでも人々のもとに出かけて行った。

私は何度か遠くから、ヨハネ・パウロ二世を見たことがある。ある時、近くで見たいと思い、幼いイエスの聖テレーズにお祈りをしていた。聖女のとりなしで、祈りは聞き入れられ、私はヨハネ・パウロ二世のプライベートのチャペルでのミサに与ることになった。

私はヨハネ・パウロ二世が、チャペルの後方の入口から輝かしいお姿で入堂なさると思いこんでいた。ふと祭壇のほうを見ると白い石のようなものが見えた。「えっ、もしかしてあのうずくまっていらっしゃるお方が教皇さま?」と思った。白いガーゼの赤ん坊の産着のようなものを着て、お祈りをしていらっしゃったのだ。1人の司祭が教皇さまを支えて起こし、2人のシスターが祭服を着せ始めた。湾曲した背中、ようやく支えられて立ち上がるお姿を見た。

教皇さまは自分が老いていること、病気であることをありのままに、さらけ出していた。私は、教皇さまがチャペルの入り口から権威あるお姿で入っていらっしゃると思っていたことを、恥ずかしく思った。教皇さまはアイドルでもなく、スターでもない。イエス・キリストの真の代理者なのだと痛感した。

私も年を重ねていく途上で、主イエスがペトロに「年をとると、他の人に帯をしめられ、行きたくないところに連れて行かれる」と言われた言葉で、恐れおののくこともある。(参:ヨハネ21・18)

ヨハネ・パウロ二世のお姿を見てからは、祈りによって神さまから力をいただいて起き上がり、命のある限り、私に与えられたみ旨を果たそうと決心した。

年を重ねる

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ

園庭にチラホラと黄色の葉っぱが舞い降りてくる。毎年のことながら、この季節を待っている子どもたちがいる。

人それぞれに季節の好みはある。中でも、秋を好む人もかなりいると聞く。「たそがれ時」のイメージを抱かせる秋ではあるが・・。

子どもたちは元気である。黄色い銀杏の絨毯の上を転がり舞っている。曇った空などそっちのけ。はちきれんばかりのまんまる笑顔。

今は年を重ねた自分。年を取ると、子どもたちから元気をいただく、とよくいう。ということは、「年を重ねる」とは元気がなくなるということなのか。確かに肉体的な元気さは子どもたちにはかなわない。しかし、この年まで生きてきた「元気さ」はその人にしかわからない。そして、その人の貴重な財産であることも確かである。

要は、この年まで培ってきた「生きる」というその人の財産を、「わたし」の財産としてだけではなく、若い世代にいかに見せ、語り継いで「わたしたち」の財産としていくか、年を取った人の、さらなる「元気さ」ではないかと思う。

子どもの元気は、今から始まる人生という旅路のスタートダッシュのために必要な「元気」なのだ。エネルギーである。そして、楽しい一歩一歩を踏みしめていく。周りの「年を重ねた」人の歩みを確かめつつ・・。

こうして、若い彼らも心身の新陳代謝を繰り返しながら、新たな「年輪」を記していく。

園児から児童へ、生徒へと・・。彼らもまた、年を重ねていく。先人たちが築いた財産を土台にして。

ここに神の計画を感じる。本来の人のいのちの温かい繋がりを。この気づきを糧にさらに「年を重ねて」みたい。


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