「昔はね、北の土地は暮らしも厳しいものでした。特に冬は雪が多くて大変だった。狭い山道は車が通れませんから、私は馬に乗って往診をしました。夜中に病人が出ると、馬で駆けつけるんです。吹雪の時もありましたよ」
食卓には、美味しそうな食事が並んでいたが、そこに何もないかのように、その方は静かにお話を続けられた。
この方は、ご自分の物語を私たちに読んで聞かせてくださっていたのである。それは北国の厳しい自然と闘う物語であり、人々を救い続けた無名の人の輝きの物語でもあると私には感じられた。その方は古い時間の中に沈み、物語のページをめくっておられたので、食べ物など目に入らなかったのだろう。降る雪が目の前に見えるような、心に残るひとときだった。
人の一生は、ただ流れていく時間ではない。
かけがえのない物語を生きていくことなのだ。自分自身が読み返し、また人々にも読まれるページの1枚1枚。この地上で静かに輝く人々の物語に敬意の気持ちを持っていたいと思う。