先月、傾聴の研修に参加し、生まれる前の胎児の姿と人間の耳の形は驚くほど似ている、という話を聞きました。人はもともと母の胎内にいる時から、心臓の鼓動や血液の流れる音に安らぎを得ているそうで、まさに「聴く存在」なのでしょう。大人になってからも〈全身が耳〉だった記憶は残っており、日々出逢う人の話を聴き、出来事を通してメッセージを聴くという感覚に気づき始めると、私達の日常にはさまざまな発見が潜んでいる、と感じます。次の詩はダウン症をもつ息子との対話の場面を描いたものです。
ゆっくり成長で、今も話せない息子ですが、彼の存在自体が何かを語っている、という感覚で〈心の耳〉を養いたいと思っています。
出先の喫茶店で、「童心」がお題のエッセイを書いてから、自宅の妻に電話した
ーーーじゃあ、今から読むよ
ーーー周ちゃんに聞かせるから、ちょっと待って
妻が携帯電話の音量をあげてからできたてほやほやのエッセイを朗読するや否や受話器越しに、鈴鳴りの笑い声が転がった
染色体が1本多い周ちゃんは、3才であーとかうーとか言うけれど(何か)が伝わっているらしい...
詩人という少々変わったパパではあるが時折、朗読なんぞで伝授しようと、思うのだ
言葉の裏にあるものを