マリアさまは突然身に憶えがないのに、神の子の母となると告げられ、それから、いくつも、いくつも、不思議な、解せない辛いことに出会い、その度に自分には解らなくとも、それを受け入れ、心の中で考え続けておられ、最後には十字架刑になる我が子を見守ることにまでなったのです。あの方が、あのように解らないことを受けいれ、じっと考え、思いめぐらし続け、神様にゆだね続けたことを、教会はとても大切に思ってきたのではないでしょうか。「私たちのお母さん」とはそういう方なのでした。教会はそこに、信仰というものの原型を見て大切にしてきたのではないでしょうか。そのように考えると、身の回りのいろんな難しいことも、どのように考えていけばいいのか、なんだか解りやすくなるような気がします。