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私たちのお母さん

末盛 千枝子

今日の心の糧イメージ

私のデスクの上のパソコンの隣に粗末な服を着た素朴な、まるで田舎娘という感じの像があります。どこかフランスの修道院で造られたものですが、目は真っすぐにこちらを見ているけれど、両腕は体の両脇に静かにおろし、手には何も持たず、広げたままです。それだけの姿ですが、よく見ると裏に貼られた小さなラベルに「受胎告知」と書いてあり、それに気がついた時、本当に驚きました。私の中に、そういうことだったのか、という思いがわき上がりました。それは、マリアさまが全てを受け入れるということがそういうことだったのかと言う、今更のような思いと、受胎告知をこのような形で表現しようとした、名も知らぬ修道女への心からの共感の思いでした。

マリアさまは突然身に憶えがないのに、神の子の母となると告げられ、それから、いくつも、いくつも、不思議な、解せない辛いことに出会い、その度に自分には解らなくとも、それを受け入れ、心の中で考え続けておられ、最後には十字架刑になる我が子を見守ることにまでなったのです。あの方が、あのように解らないことを受けいれ、じっと考え、思いめぐらし続け、神様にゆだね続けたことを、教会はとても大切に思ってきたのではないでしょうか。「私たちのお母さん」とはそういう方なのでした。教会はそこに、信仰というものの原型を見て大切にしてきたのではないでしょうか。そのように考えると、身の回りのいろんな難しいことも、どのように考えていけばいいのか、なんだか解りやすくなるような気がします。