「信じること」のあり方は、1人1人異なります。同じ神さまを信じていても、信じる生き方は1人1人違うのです。なぜなら、人は皆、同じ考え方を持つわけではないし、同じ行動をとるわけでもないからです。誰かのまねをしたから、それが成し遂げられるわけではありません。1人1人が自分の在り様を証ししながら生きることなしに、本物の信仰を生きることはできません。
自分の弱さや欠点を受け入れながら、また、周りの人たちとのしがらみをも受けとめながら、それでも前を向いてしっかりと自分らしく生きていくことなしに、「証しして生きる」ことはできないのです。
神さまは、私たち1人1人をロボットとしてお造りになったのではなく、自ら考え、行動する自由を持つ存在としてお造りになりました。そして、1人1人の違いはあっても、1人1人がかけがえのない存在として造ってくださいました。
私たち1人1人が、自らの良さを認め、自らの光を輝かせて生きて、続けていくことが、現代における「証しして生きること」。言い換えれば「殉教」なのだと私は思います。