右近も、最初から「真のキリスト者」にふさわしい人間だったわけではありません。彼も、戦国時代の価値観、権力や力に重きを置く精神に感化され、「自分」の名誉のために、死を厭わずに戦おうとする「英雄」にあこがれていました。そして、彼は、「信仰の戦い」においても、常に「自分」に中心を据え、自分の信仰を確信していました。しかし、様々な時代的背景と自分の無力さと人間的欠如を自覚する体験を通して、神のあわれみに目覚め、徐々に、神に自分自身を委ね、神の恵みによって自己を他者に明け渡して、キリストの模範に倣う「愛の人」、真に神の愛のためにいのちを懸ける人に変えられていったのです。
右近の内的な成長過程は、同じ人間として、大変興味深く、親しみと感銘を覚えます。右近の生涯は、右近が自分らしく生きるために、常に大切に心に抱き続けてきた「自分の命を捧げる」という望みを生きたように思えます。そしてそれは、彼がキリスト者になる以前から神によって導かれ、神をあかしするために、「殉教者」としての道を歩むように、神が準備された道のりであり、右近自身の神への応答だったのだと感じます。