司教様のお話では、右近の殉教は、一挙に殺される場合と違って「自分の意に反してゆっくりとキリストのために長く死んでゆく」という事でした。そしてそれは、自分の人生に与えられた苦しみ、十字架を背負いながら喜んで生きる、という現代の私達の歩みに与えられた殉教の意味だと結んでおられました。
さて、私も私なりに、自分を主なる神様に捧げて生きたい、残された人生は特にそうありたいと願うのです。
そういう私の暮らしは、身の周りの楽譜の山や、メモや予定表の紙が積み上げられたり、それが崩れて散乱したりして足の踏み場も無く、何がどこにあるのか、もはや分からない中で行われます。その中から、目的の楽譜なり予定表なりを根気よく探す、これは疲れます。これも、もしかして私の殉教の一部?かもしれません。
私が生活すると「意に反して」こうなるというところが、私が右近に似ていると言えませんか(言えません!との声)。
どうやら私が若かった頃、修道者だったあの頃も、私の室内は今と似た状況だった事を思えば、これはむしろ、私らしいのかも知れず、であれば、もはやお手上げという外ないかも知れず・・・。