相手にしてみれば、悪気はなかった、あるいはほとんど善意だったのだろうとさえ想像しますが、それでも、そのことを嫌だと思う自分の傷が消えないのです。それほど自分にとって、とても大切だと思っていたようなところなのです。
そして、どうしてもっとおおらかにできないのだろうか、と自分を責めてしまいます。自分にとって、本当に大切なことを、たいしたことでないかのように扱われてしまったという怒りでしょうか。そうかもしれません。ほかのことについては、もっとおおらかに接してきたのに、という苦い思いが消えません。
人と人との絆を回復して下さるのは、聖霊の導きだと聞いてきました。そして、そんな時、私がもっとも頼りにする、聖書の言葉は「主よお話し下さい、しもべは聞いております」というサムエルの言葉です。(サムエル記上3・9)少年サムエルが、夜中に声を聞いて、3度も師のもとに駆けつけるのですが、師は呼んだのが自分ではないと気がつき、今度声を聞いたら「主よお話しください、しもべは聞いております、と言いなさい」とサムエルに言うのです。なんと素晴らしい祈りの言葉でしょうか。この言葉と生きていけば、おおらかでいられる、そんな気がします。