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おおらかに

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ

おおらかに生きるというのは、いい加減に生きることでも、怠けて生きることでも、無責任に生きることでもありません。むつかしいことです。

そのような心境に生きるためには、日常生活の中でも修行と言うものが求められます。どういう修行かというと、聖書の言葉を引用すれば、こうなるでしょう。「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のようにものを買う人は持たない人のように、世のことに関わっている人はかかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないで欲しい。」と、聖パウロがコリントの教会の信徒に宛てて書いている通りではないでしょうか。(1コリント 7・29〜32)

どんなことにも執着するな、ということだとわたしは思います。

物が有るか無いかではなく、自分の心が物や事柄にとらわれるとき、人間が本来持っているおおらかさが無くなります。

人間とは、本来、神のかたどり、似姿にほかなりません。ですから、どんな人も人間であるかぎり、神の分身として限りない尊厳を有し、完璧で、偉大な創造力を持っています。けれども、それはあくまでも種子のような状態にすぎません。ですから、それを開花、結実させようとしない限り、人間本来の偉大な尊厳さに気づき、経験することができません。ですから、自分の本来の姿を実感するために、無一物を目指すのです。

具体的には、すべての事物、事柄に没頭しながらも、無執着になろうと努めることです。そのとき無尽蔵の自分に気づくことでしょう。そうすれば、自然におおらかになれます。