聖書には、何事にも戒律を持ち出してこだわる、ファリサイ派の人々の言動に対し、シンプルにその時一番大切な事を選び、つまづきのある人も、悔い改めれば、全てにゆるしを与えて下さるキリストは、真におおらかに振舞われたことが示されています。
礼儀を重んじ、細かい気配りが出来ることが美徳であるとされる日本人の生き方では、本音と建て前という言葉があるほどですから、見て見ぬ振りをして取りつくろう事は出来ても、心からのゆるしを与えるなどという行為は、なかなか出来るものではありません。
本気で何事にもこだわりが無く平常心を保っている事が「おおらかな生き方」と云うのなら、その生き方には信仰の有無が大きく関わってくるのです。
人生に何が起こっても、試練と受け入れてこれ以上事態が悪くなるはずは無いとポジティブに受け止め、成りゆきを神様にゆだねてしまえる人は、どんなに逆境でも時が過ぎれば、必ず好転すると信じているので安心なのです。
今年列福が決定したユスト高山右近の生涯は、大名、流浪人、居候の武士、流刑人と境遇が激変する中、キリシタンであることと、茶人を貫く事で、人生に翻弄されながらも、おおらかに生きたという模範です。