あることあること、「老い」に関する本がずらりと並んでいます。
65歳以上の高齢者が全人口の25パーセントを占めるとのこと、いかに「老い」を生きるかは、さし迫った大きな課題です。
若者文化が巾をきかせている日本、とかく「老い」は福祉行政などにくくられてしまいがち。
でも、もともと「老」は、尊敬語なのだそうです。老成、老熟、老大家など。否定的な老醜、老獪などは後で造られた言葉なのです。
ですから、透徹した人生観、枯淡の心境、敬虔さを身に帯びた、真の「老人」になれるのは選ばれた人、のみなのです。
となると、違った意味で私など、「老人」というのは、まだまだおこがましい。
枯淡の境地とは、ただ枯れてゆくのではなく、物欲や名誉欲、野心などあらゆる欲望から解放された自由人、ということですし、敬虔さとは、超越者ー神の前に額ずくことの出来る人、ということでしょう。
また老熟とは、あらゆる状況に対して耐性ができてゆくこと。つまりどんなことがあっても、竹がしなうように柔軟に対処できる。
孔子の言う「いくら自分のしたいようにしても規範を越えることがない」ということですね。
やりたいことをやって、のびのびと、自由自在に天を仰ぎ地を眺め・・そんな老いの境地に憧れます。
それがかなえられる世界でありますように・・・。