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老いるにも意味が・・・

服部 剛

今日の心の糧イメージ

以前働いていた老人ホームで、今も心に残っている場面があります。

仕事が早く終わった私は、半身不随のおばあさんが乗る車椅子を押して芝生の庭に出ると、西の空にとても美しい夕陽がありました。思わず私はひと時立ち止まり、頬を夕陽に照らされたおばあさんは目を細め、「きれいねぇ・・・」と呟きました。翌日おばあさんは私の顔を見ると嬉しそうに「昨日はありがとう」と言い、その後も時折私と話すたびに「きれいな夕陽だったわねぇ」と微笑みました。

また、リウマチを患うおばあさんは自分の誕生会の日に「買い物に行きたい」と望み、私は車椅子を押して老人ホームの外に出て、他愛のない会話をしながら八百屋やスーパー、本屋に入っておばあさんの行きたい場所を回りました。その日の仕事を終えて帰る前、もう一度おばあさんの部屋に顔を出すと、ベッドから身を起こしたおばあさんは満面の笑みを浮かべ「今日は楽しかったわよ」と言いました。

これは10数年前の思い出であり、2人のおばあさんはもうこの世にはいません。しかし、瞳を閉じれば2人の笑顔は心に浮かび、あの日の一言が今も聴こえるようです。

先日、古本屋でトマス・カーライルの『今日』という詩に出逢いました。「この日、永遠より来たり/夜と共に永遠に去る/人いまだかつてこの日を見ず/去って再びこれを見る者なし/ここに白日また来たりけり/浪費せざらんことを努めよ」という言葉に、2人のおばあさんの心が重なります。

「あたりまえの1日」がいかに大切であるかは老いてこそ実感するもので、若い時にはわかりづらいかもしれませんが、2人のおばあさんの存在は、今も遠くから語りかけています。〈人はかけがえのない想い出をつくるために、日々を生きている〉のだと。