▲をクリックすると音声で聞こえます。

老いるにも意味が・・・

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

神父の主な仕事の1つは、ミサの中で説教することだ。聖書と首っ引きで原稿を準備し、少しでもいい説教をしようと頑張っているが、どんなに準備しても年配の神父さんにはかなわないと思うことがある。たとえば、先日こんなことがあった。

その日のミサでは、「貧しい人々は、幸いである」というイエスの言葉が朗読された。(ルカ6・20)説教を担当したのは89歳の神父様。聖書を朗読するだけでも息絶え絶えの神父様がとつとつと語ったのは、「これは、なかなか難しい箇所だな。でも、貧しいからこそ幸せというのは、確かにあるんじゃないかな」ということだけだった。

たったそれだけの説教だったが、わたしは深く感動した。彼の生活がその聖書の言葉そのものだったからだ。

その老司祭と一緒に暮らすようになってまず驚いたのは、冷暖房を一切使わないということだった。「熱中症が怖いのでせめて冷房を」とお願いしたこともあるが、「なに、だいじょうぶ」と断られてしまった。彼は、服もほとんど持っていない。食事も、いつも残り物を先に食べる。生活費を渡しても、医療費以外ほとんど支出がない。徹底した貧しさと言っていい。

客観的に見ると「何が楽しいのだろう」とも思える生活だが、わたしたちと一緒にいるとき、その老司祭の顔にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいる。イエス・キリストの教えの通りに貧しい生活をする彼の心に、神様が目に見えない恵みを豊かに注いでくださっているのだろう。

彼の生活は、それ自体が「貧しい人々は、幸いである」というイエスの教えを証する説教だと言っていい。生涯をかけて準備した説教だから、頭で考えただけの説教とは重みがまったく違う。生き方そのもので聖書の教えを雄弁に語ることができる、そんな司祭にわたしもなりたい。