たったそれだけの説教だったが、わたしは深く感動した。彼の生活がその聖書の言葉そのものだったからだ。
その老司祭と一緒に暮らすようになってまず驚いたのは、冷暖房を一切使わないということだった。「熱中症が怖いのでせめて冷房を」とお願いしたこともあるが、「なに、だいじょうぶ」と断られてしまった。彼は、服もほとんど持っていない。食事も、いつも残り物を先に食べる。生活費を渡しても、医療費以外ほとんど支出がない。徹底した貧しさと言っていい。
客観的に見ると「何が楽しいのだろう」とも思える生活だが、わたしたちと一緒にいるとき、その老司祭の顔にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいる。イエス・キリストの教えの通りに貧しい生活をする彼の心に、神様が目に見えない恵みを豊かに注いでくださっているのだろう。
彼の生活は、それ自体が「貧しい人々は、幸いである」というイエスの教えを証する説教だと言っていい。生涯をかけて準備した説教だから、頭で考えただけの説教とは重みがまったく違う。生き方そのもので聖書の教えを雄弁に語ることができる、そんな司祭にわたしもなりたい。