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老いるにも意味が・・・

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

私の父母は末っ子で、私も末の方に生まれたので、祖父母の味を知らずに成長した。

23歳で結婚し、夫の家族と同居した時、80歳の祖母がいて、亡くなるまでの2年半、一緒に暮らした。

わずか2年半の月日ではあったが、密度の濃いものであったと感謝をこめて思う。

夫の祖母は自立心の強い人であった。

昭和40年代半ば頃の80歳といえば、今と異なり、ずいぶんと老人に見えたが、外見とは違い、ゆっくりではあったが、日常のすべてのことを自分でこなした。

私が一番心に残るのが、脳溢血で突然倒れて亡くなった時、汚れ物を一切残さなかったことである。それこそハンカチ一枚も。

風呂に入りながら、自分の下着や靴下など小物は手洗いし、干してから眠りにつくのが祖母の日課であった。

私も昨年の大腸ガンの手術のあと、夜、必ず、その日の汚れ物は洗い、干してから眠りにつくのが習慣となった。

祖母の亡きあと、私の手本となったのが、夫の父母であった。同居生活は苦しいことも多かったが、しかし、舅、姑が老いていく生の姿をそっくりそのまま見せてくれたことは、何よりの生きた勉強であったと思う。

特に姑は左半身ふずいで入院するまでは、反面教師として見ることが多かったが、入院してのちの5年半、私にとって、老いることの意味を教えてくれた恩人だと思っている。

半身ふずいになった姑は、残された機能に対し、ひとつひとつ感謝した。右手がきくので、右手だけの合掌をした。その姿は一枚の絵のように私の心に残っている。老いて、身体が不自由になっても、神さまに感謝する心だけは失われないと姑は教えてくれた。