あの頃私は、「父に若い私の心がわかるはずがない」と、一方的に思い込んでいたのでした。しかし父は、私の言い分は充分に理解できたのですが、「今は何を言っても聞こうとしない」という諦めの思いがあったのでしょう。
年を重ねた今、やっとあの時の父の思いがわかるのです。若い人たちが主張することを黙って聴きながら、逸る心に沈黙を命じることが出来るのも、その思い出が記憶に残っているからだと思います。
老いるのにも意味があることを、痛切に感じるひとときです。
経験から推して言えることと、今言ってはならないことが分かる、それが老いた者の知恵かもしれません。
長い人生の間に味わった喜び、悲しみ、その経験が今、若い人たちに語りかける「勇気」となり、また、無言の中に秘められた力が若者に行動を起こさせることにもなるでしょう。
謙虚に聞く耳を持つ人は、先人の言葉に耳を傾けるでしょうし、自信を持って事に挑もうとしている人は聞いてくれないかもしれません。でも、一応話すべきことは話してみる、それが大切ではないかと思っています。
「老いる」というとき、それは天国への旅立ちが近いことを意味します。それに備えるには、幼いイエスの聖テレーズが教えているように、日々の小さい事柄にまで愛をこめて行うことではないでしょうか。