「親は子供の幸せを願うもの」だと言いますし、私自身も自分の経験からそう思っています。私が自分の進むべき修道者の道を決めた時、両親は心配のあまりに猛反対しましたが、最終的には、私への深い愛情から、自分たちが娘に期待する普通の女性としての幸せな道を選ばなかった私の自由な生き方を受け入れてくれるようになりました。
「老い」という言葉は、時には否定的に聞こえますが、それぞれの人生の加齢のプロセスであり、「いかに生きるか」という問いへの応答だと思います。
私の両親は、ごくごく普通の人ですが、少なくとも娘の私との関わりの中で苦労し、世間的な常識や評価に振り回されないで、子どもの生き方、あり方、そしてその自由と幸せを尊重し、受け入れるというプロセスを歩んで来てくれています。今、ふり返ると、自分の親ながら、その人生の歩みは尊く、神様の無限の愛の鑑のようにも感じられます。
両親に感謝しながら、神様のみ前に創られた存在として、出会う一人ひとりの幸せと自由を願い、尊重し、自分は歳と共に、存在そのものが何の濁りもなく澄んでゆく、そういう存在であり、そういう人生を歩みたいという思いに駆られます。
「老いる」ことは、より深く人を愛し、受け入れ、少しずつ創造主の愛に近づいていく、そういうプロセスなのではないでしょうか。