神と共に生きるというのは、神を無視した完全な自我意識で生きることでもなく、あるいは自己を完全に滅却して、ただ神のみがわたしのすべてになってはたらかれるような生き方でもないと思います。神はすべてにおいて、すべてであられますが、それと同時に、人間においては、我執という自我を無くすときに現れてくる、自己と言う本当の自分になって、自由に、主体的、しかも個性的に生きていくことではないかと思います。
神の右足にわたしの「我」という左足を結わいつけるとき、わたしの右足は、神の左足と調和して、ぐんぐん走ることができます。
昔、神学を学んでいるとき、ある神学の教授は、神の恵みのはたらきと、人間の自由意志のはたらきの関係について、こう言われたのを思い出します。「何事も100パーセント神のはたらきですが、同時に100パーセント人間のはたらきです」と。
人間に自己責任があるのは、そのためではないでしょうか。