教皇様のこの呼びかけに応えるには、まず私たちキリスト教徒がこれまで本心から、ありとあらゆる場において、憎しみなどと大げさな事ではなくとも、心の隅をチラッと掠める羨望だったり、殆ど気付かれなかったかも知れない程の意地悪の行為などは、いくつもしてきた事を認め、顔を赤らめながらも、謝罪しなければならないでしょう。
それに比べて神様の私達への慈しみは実に深く喜ばしいものです。
まず、神は私達各々を胸がさけそうになるほど愛おしく思ってくださり、ギューッと抱きしめ、それこそ目に入れても痛くない思いでいらっしゃるのです。
これ程愛されて、嬉しくない人はいないでしょう。
それから、この聖なる年は、旧約聖書のレビ記とも関係していると思われます。(参:25章)
モーセに率いられてイスラエルの民がシナイ山麓にいた時、主はモーセに仰せになりました。
「イスラエルの人々にこう言いなさい。あなた達は6年間働いたら7年目にはその畑を主のための安息として休めなさい。・・安息の年を7回すなわち7年を7度数えなさい。・・この50年目の年を聖なる年とし、全住民に解放の宣言をする。・・私は主なる神である」と。