神が人を愛されたこと、イエスの誕生によって私たちの罪が赦されたことを説くキリスト教の信仰は、多くの人に救いをもたらし、生きる原動力を与えています。私もそれを経験している一人です。
一方で、歴史の中では宗教の大義によって戦争が行われたり、弾圧が行われたりする可能性は常に存在します。そのような衝突のなかで有効になってくるのが、対話だと思うのです。
ある人が「君の立場になれば君が正しい、僕の立場になれば僕が正しい」と言ったそうです。それぞれに正しさがある場合、まずその事実を認め合うのが対話の始まりかもしれません。アシジの聖フランシスコが祈ったように、「理解されることより理解すること」を望むということなのでしょう。
さらに、そうするには、相手を愛し、相手の抱える問題を哀れむ慈しみの心が必要なのではないでしょうか。だから諸宗教対話の呼びかけには、慈しみの精神がこもっていると思えるのです。
"自分らしさ"という言葉がはんらんしている現代こそ、対話を通した慈しみの実践を、いま一度考えてみても良いかもしれません。