以前、幼稚園に子どもを通わせている母親たちの中に、学歴と職業を偽って自慢をする方がおられた。高学歴のエリート医師であるという彼女の話は、聞くほど本当ではないと分かるのだが、周囲の女性たちは「ふーん、すごいわねー」と言うだけで、特に糾弾することもなく、放っておいた。自慢話とは、嘘であれ真実であれ、それだけに留まるなら、害はないものなのである。そんな寛大な周囲のおかげで、その人は話の上だけとはいえ、夢の人生を生きることが出来て、大いに幸福だったのではないかと思っている。
正義感の強い人々は、嘘は許すべきではないと言うかもしれない。しかしゆるされて幸福であるのは、本当に彼女だけなのだろうか。私たちは、人生においてゆるされたことが、一度もないと言えるのだろうか。
民族間の紛争に始まり、様々な犯罪、暴力に遭遇する現代では、裁かずゆるすということは大変に難しい。だが、聖書を開けば、そこには、ゆるされた者たちの物語がある。遥かな昔から、私たちこそがゆるされ、大きないつくしみに包まれてきたのだ。そのことに気づく時、照らされた道が見えてくるように思う。そして、その道は私たちが日々を暮らし、ゆるしあう場所から始まっているようにも思う。