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いつくしみの特別聖年

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

いつくしみの特別聖年が始まっている。聖なる年の扉が開かれたのだ。この時期、私たちは「御父のようにいつくしみ深く」というモットーの元に、人を裁かず、ゆるすことで、また全ての人に心を開くことで、いつくしみを生きるのである。

人を裁かずとは、全ての罪を問わないという意味ではないだろう。自分と価値観が異なる人の行動や、誰かが犯したミスを、悪と決めつけて責めることをしない、という意味に近いのではないかと思う。

以前、幼稚園に子どもを通わせている母親たちの中に、学歴と職業を偽って自慢をする方がおられた。高学歴のエリート医師であるという彼女の話は、聞くほど本当ではないと分かるのだが、周囲の女性たちは「ふーん、すごいわねー」と言うだけで、特に糾弾することもなく、放っておいた。自慢話とは、嘘であれ真実であれ、それだけに留まるなら、害はないものなのである。そんな寛大な周囲のおかげで、その人は話の上だけとはいえ、夢の人生を生きることが出来て、大いに幸福だったのではないかと思っている。

正義感の強い人々は、嘘は許すべきではないと言うかもしれない。しかしゆるされて幸福であるのは、本当に彼女だけなのだろうか。私たちは、人生においてゆるされたことが、一度もないと言えるのだろうか。

民族間の紛争に始まり、様々な犯罪、暴力に遭遇する現代では、裁かずゆるすということは大変に難しい。だが、聖書を開けば、そこには、ゆるされた者たちの物語がある。遥かな昔から、私たちこそがゆるされ、大きないつくしみに包まれてきたのだ。そのことに気づく時、照らされた道が見えてくるように思う。そして、その道は私たちが日々を暮らし、ゆるしあう場所から始まっているようにも思う。