▲をクリックすると音声で聞こえます。

崇める

シスター 渡辺 和子

今日の心の糧イメージ

カトリック教会では、祝日のミサ中に、「われら主を拝み、主を崇め、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる」と唱えますが "崇める"とは、現在、日常生活の中ではあまり使わないし、耳にもしない言葉です。そこで広辞苑をひいてみましたら、「尊いものとして扱う」と書かれていました。

崇めるという行為は、気をつけないと、真に崇められてしかるべきでないものが、"神"として尊ばれる危険性を持っています。

 

旧約の時代、イスラエルの民は、主なる神の言いつけに背いて、何度も金や銀で鋳像を造り、いけにえを捧げて崇め、その度に、神はこの偶像崇拝を厳しく罰せられました。

21世紀の今も、同じようなことが行われていて、人々は名誉、財産、権力、学歴、時には肉体を偶像として崇め、それらを最高善として、その前にひれ伏しているのです。

イエスはかつて弟子たちに向かって、「だれも二人の主人に仕えることはできない・・・あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ6・24)と仰せられました。つまり、神と他のものを同列に置いてはならないという戒めなのです。

「人の心も金で買える」と豪語した人が日本にもいて、いっとき話題にもなりましたが、その同じお金で我が身を亡ぼすことになってしまったようです。

 

旧約聖書のヨブ記の中で、ヨブは、どれほどサタンから痛めつけられても「主は与え、主は奪う。主のみ名は賛美されますように」(1・21)と言って、主を崇め続けました。どのような状況におかれようともなお、主のなさることに間違いはないと、主を信じ、その主権を尊んだヨブに、私たちは主を崇める人の姿を見るのです。