もっとも、誰かが死んだとき、その人の一生に思いを馳せるという時、そこには、崇めると言ってもいい気持ちがこめられているかもしれません。でも、私は、この言葉をイエズスさまや、マリアさまに使う時のためにとっておきたい、そんなふうに思います。クリスマスに、羊飼いや3人の博士たちが、天使に促されて幼子を拝みに行く。あの景色はまさに崇めにいく、のだと思います。
そして、私がもうひとつ思うのは、復活祭を前にした聖金曜日にイエズスさまが十字架につけられてなくなられたことを記念して、十字架の礼拝という典礼があります。私が子どもだった頃には『十字架の崇敬』と言われていたと思います。
夜に行われる、この儀式の時、並んで行列をつくり、1人ずつ祭壇の前に掲げられた大きな十字架を礼拝するのです。むかしは、その十字架の足下にそっと唇を触れることになっていたと思います。私には、それが難しかったのですが、でも、そっと十字架に手を触れるということはしたいと思ってきました。心からの、本当につましい、親しみと崇敬を込めてそうしたいと思うのです。その思いは今も変わりません。