▲をクリックすると音声で聞こえます。

崇める

末盛 千枝子

今日の心の糧イメージ

あがめる、という言葉について、よくよく考えてみました。めったに使わない言葉ですが、最上級の尊敬がこもっていることだけは確かです。でも、どのようにでしょうか。

私の感覚では、どうも『崇める』という言葉は、神聖な存在言ってみれば神にしか使わない、使えない言葉のような気がします。どんなに大切な人でも、あるいは、どんなに立派な人にでも、『崇める』という言葉は使うわけにはいかないように思います。この言葉は、どうしても神、あるいはキリスト、そして、マリアさまにしか使えない、使いたくないと思うのです。

もっとも、誰かが死んだとき、その人の一生に思いを馳せるという時、そこには、崇めると言ってもいい気持ちがこめられているかもしれません。でも、私は、この言葉をイエズスさまや、マリアさまに使う時のためにとっておきたい、そんなふうに思います。クリスマスに、羊飼いや3人の博士たちが、天使に促されて幼子を拝みに行く。あの景色はまさに崇めにいく、のだと思います。

そして、私がもうひとつ思うのは、復活祭を前にした聖金曜日にイエズスさまが十字架につけられてなくなられたことを記念して、十字架の礼拝という典礼があります。私が子どもだった頃には『十字架の崇敬』と言われていたと思います。

夜に行われる、この儀式の時、並んで行列をつくり、1人ずつ祭壇の前に掲げられた大きな十字架を礼拝するのです。むかしは、その十字架の足下にそっと唇を触れることになっていたと思います。私には、それが難しかったのですが、でも、そっと十字架に手を触れるということはしたいと思ってきました。心からの、本当につましい、親しみと崇敬を込めてそうしたいと思うのです。その思いは今も変わりません。