キリスト教の信徒になり、修道女になりたいと思ったこともあった。青い目の司祭に相談に行くと「イエスがかわいそう」と言われそれでは「結婚ですか」と聞くと「ご主人がかわいそう。ひとりがいい」と言われた。
父が亡くなる日の午前中、「私の将来のことは心配しないで」と話しかけると、「結婚をしないで、一生誰かを待っているほうがいい」とこたえた。
それから暫くして、米沢の教会の合同のクリスマスで米沢の殉教者のシナリオと演出を頼まれた。しばしば「北山原」に通うことになり、53名の殉教者たちのことを調べた。
その当時、米沢に司祭は年に1〜2回しか来なかったが、3千人の信徒がいたと言われている。ルイス甘糟右衛門を中心に信徒の組織がしっかりしていた。私は信徒の中でとくに召し使いに惹かれた。
夜明け前、雪の中を行列する時、召し使い達は、主人から分け隔てなく白い着物とロザリオを与えられ、沿道を埋め尽くす人々に見守られながら「北山原」に着き斬首された。
この殉教劇を上演する日、「北山原」に行って、人生の軌道修正する時に必ずぼうっと現れる白いイエスのみ顔を仰いだ。
私にとって勇気を持って歩むとは、自我にではなく、神の召し使いとして従いつつ、一生かけてイエスを待つ勇気だと気がついた。