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クリスマスとは

末盛 千枝子

今日の心の糧イメージ

私が小学校3年の時のクリスマスの夜に、私の家族はみんなで洗礼を受けました。その前の年に、小さな弟が急性肺炎で亡くなって、父と母が、その小さな子のお葬式を教会でしてもらいたいと願ったのがきっかけでした。その子の死が、私たちみんなの人生をすっかり変えました。

それからの私たちは、教会との関わりなくしての人生はないかのように思います。あの洗礼式の行われた教会からの帰り、夜中のミサでしたので、月はこうこうと照り、冬の星座がよく見えて、足下の雪はキュッキュッと鳴っていました。クリスマスにふさわしい、本当に寒く、美しい夜でした。

父はその夜のために、東京でやっと買ってきた革靴を履いていました。ところが、クリスマスの長いミサが終わって、外に出ようとした時、父の靴がありませんでした。いくら探してもないのです。戦後のみんなが貧しい時でしたから、だれかがはいってきて新しい靴を持っていってしまったのでしょう。子どもの私は、父がやっと手に入れた靴なのに、と思って、残念でたまりませんでした。父は教会でゴムの長靴を借りて、それをはいて帰りました。でも、父も母も、その靴のことは、何も言いませんでした。子ども心に、偉いなあと思ったのを覚えています。父と母は、そのことが大事なのではないのだということをはっきり教えてくれたような気がします。

クリスマスのミサで、おなかの大きな女の人を見ることがあります。そんなとき、私はとても嬉しく、なんだかマリア様を見ているような嬉しい気持ちで、その人に見とれてしまいます。ああこの女の人は、マリア様と一緒に赤ちゃんを迎えるのだと思うのです。