死者を偲ぶ

シスター 渡辺 和子

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17歳の暮れでした。カトリックの洗礼を受けてもいいかと尋ねた私に、母は大反対し、その理由の一つとして、戦争中にバタくさい宗教に入ることはないと言いました。二つ目の反対理由は、宗旨が違ったら、浄土真宗で亡くなった父をはじめ、ご先祖さまへの供養が途絶えるからということでした。

強情な私は、このような母の反対を押し切って洗礼を受けたのですが、カトリックには思っていた以上に、死者を偲ぶ機会が多くありました。時差の関係もあって、毎日、毎時間、世界のどこかでミサがあげられており、ミサの重要な部分には、メメント・モリ(死を覚えよ)という典礼文があるのです。さらに11月は死者の月と定められ、月の初めに、すべての死者を偲ぶ日さえ設けられています。

修道院で朝夕唱える「教会の祈り」の中には、必ずといってよいほど、死んだ友人、恩人、会員、親族のための共同祈願もあって、「ああ、私もやがて、こうして偲んでもらえる」という安心感に包まれることがあります。

親不幸をしたあげく、修道院に入った私は、シスターたちといっしょにミサに与り、祈りながら、「お母さま、ご心配なく。ちゃんとお祈りしていますからね」と今は亡き母に語りかけるのです。母も、苦笑しながら喜んでいてくれることでしょう。

近頃あまり言われませんが、私は、煉獄の霊魂のために祈る習慣を、中学・高校時代のシスターから習いました。天国に入る前の浄めの時期にある死者たちは、自分では今や何もできません。この死者たちが、一日も早く浄められて、神のみもとに行けますようにと、私は祈ります。そして、小さい犠牲を捧げること、これが、今の私にとって、死者を偲ぶ大切な部分になっているのです。

死者を偲ぶ

熊本 洋

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この世で、もう再び会うことの出来ない家族、知人、友人などとの死別、死に別れほど、悲しいことはありません。それが親であったり兄弟姉妹、祖父母、あるいは愛しい我が子であったりします。

その悲しみは、近親者であればあるほど、大きく、筆舌に尽くしがたいものがあります。また、そのショックは、どのような死別であったか、どのように、どんな状態で、この世を去ったかによっても異なってきます。不慮の死、悲しくも長らくの歴史上、未だに続いている遥か彼方での戦死なども、その部類です。

国家のために殉じた戦死者に対しては、国は栄誉ある死として、格別にとむらい、勲章を授与したりします。名誉の戦死とは言え、国民、だれしも、その悲しみは、耐え難いものがあります。その上、忘れてはならないのは、その戦死者の影には、数多くの名もない善意の人々が犠牲になっていることです。この罪なき人々への謝罪や追悼は、つねになされ、いつまでも、記憶されなければならないと思います。そして、そのような誠に理不尽な死がこの世にまかり通るようなことが起こらないよう、人類あげて、その努力をすべきであります。

今や高齢社会、年をとるにつれ、友人知人の数は、この世より、あの世に多く存在するようになります。先立たれた親族はもちろん、先立った友人、知人たちを偲び、思い起こすことが多くなってきます。その追憶とともに彷彿と浮き彫りにされてくるのは、この世にあって人間のあるべき姿、人間の生きるべき道であります。

カトリック教会では11月2日は「死者の日」。すべての死者のため祈るとともに、この世では互いに真実と公平と正義をもって人は生きなければという自覚を得たいものであります。


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