
修道院で朝夕唱える「教会の祈り」の中には、必ずといってよいほど、死んだ友人、恩人、会員、親族のための共同祈願もあって、「ああ、私もやがて、こうして偲んでもらえる」という安心感に包まれることがあります。
親不幸をしたあげく、修道院に入った私は、シスターたちといっしょにミサに与り、祈りながら、「お母さま、ご心配なく。ちゃんとお祈りしていますからね」と今は亡き母に語りかけるのです。母も、苦笑しながら喜んでいてくれることでしょう。
近頃あまり言われませんが、私は、煉獄の霊魂のために祈る習慣を、中学・高校時代のシスターから習いました。天国に入る前の浄めの時期にある死者たちは、自分では今や何もできません。この死者たちが、一日も早く浄められて、神のみもとに行けますようにと、私は祈ります。そして、小さい犠牲を捧げること、これが、今の私にとって、死者を偲ぶ大切な部分になっているのです。

国家のために殉じた戦死者に対しては、国は栄誉ある死として、格別にとむらい、勲章を授与したりします。名誉の戦死とは言え、国民、だれしも、その悲しみは、耐え難いものがあります。その上、忘れてはならないのは、その戦死者の影には、数多くの名もない善意の人々が犠牲になっていることです。この罪なき人々への謝罪や追悼は、つねになされ、いつまでも、記憶されなければならないと思います。そして、そのような誠に理不尽な死がこの世にまかり通るようなことが起こらないよう、人類あげて、その努力をすべきであります。
今や高齢社会、年をとるにつれ、友人知人の数は、この世より、あの世に多く存在するようになります。先立たれた親族はもちろん、先立った友人、知人たちを偲び、思い起こすことが多くなってきます。その追憶とともに彷彿と浮き彫りにされてくるのは、この世にあって人間のあるべき姿、人間の生きるべき道であります。
カトリック教会では11月2日は「死者の日」。すべての死者のため祈るとともに、この世では互いに真実と公平と正義をもって人は生きなければという自覚を得たいものであります。