
何事に関してもそうですが、囚われることが最悪なのです。水や雲のように流れていれば心配いりません。
聖書のことばによく、思い悩むな、心配するな、恐れるな、というキリストの言葉が載っていますが、それは、不安や恐れや執着のような心の状態が、ある意味で罪よりも悪いことだからです。不安や心配がなければ、どんなに忙しくても、あるいは、どんな難しい問題も、わたしたちに何の害も与えることもできません。仕事や人間関係から離れるために、わたしは祈りや散歩、それに読書に時間やエネルギーを向けます。趣味やお稽古事をなさっている人は、時間を決めてそれに没頭したらいいでしょう。わたしには趣味がないので、豊かな木々や花々など自然豊かな大学の周辺を散歩するだけでストレス解消になります。
また、修道院の聖堂も静寂に包まれているので、心静かに座っていると、心の平安を味わうことができます。ある意味で至福の時といえるかもしれません。
一般の方々には、聖堂で心の平安を味わう余裕がないかもしれませんが、少し工夫されると、自然にストレスを解消できる場所が見つけられるのではないでしょうか。

もし、そばに何でも話せるような人がいない時には、どうすればよいのでしょうか。
唐突かもしれませんが、わたしはイエス様にお話しします。何でもよく聞いてくださるイエス様が、そばにいてくださることを信じてすべてを打ち明けます。何もかも。そうこうするうちに、心が晴れ晴れとして解決法が見えてくるのです。
聖書にはこんな場面があります。(参:マタイ8・24〜26)
弟子たちが悪天候の中で船を漕いでいたとき、「先生、私たちはおぼれそうです」と叫ぶ弟子たちの声を聞いて、イエス様は、「あなたたちの信仰はどこにあるのか」と言い、起き上がって風と荒れ狂う波をおしかりになると、瞬時に海は凪となりました。
イエス様はどんなに小さなことでも、信頼されることをお喜びになります。幼子のように、弟子たちのように、イエス様の助けを求めるだけでよいのです。
些細なことも出来ない無力な私を、イエス様にお見せするだけでよいのです。