
私は鞄から、昨年亡くなった井上洋治神父様の遺稿集を取り出し、頁を開きました。その日読んだ箇所には、〈人生はいつか消える虚無ではないか...〉と悶え苦しんでいた井上青年の思春期の思い出が語られていました。
ある日、井上青年は本棚にある1冊の本に目がとまり、縋る思いで引き抜きました。その本を読み、頁を閉じた井上青年の心の中には〈世界は灰色の虚無ではなく、希望にあふれた生命の大海なのだ〉という直観が芽生えました。
私は遺稿集を閉じると、今はもうこの世にいないはずの神父様が本の中から語りかけているような気がして〈雨の日でもまた晴れる・・今日の仕事も決して無駄ではなかった〉という気持になってきて、不思議な安堵感を胸に、妻と子が待つ家に帰りました。
時間に追われる日々の中で、誰もがサード・プレイスを持つことは難しいでしょう。ただ、忙しさの中でもほんの少し「お茶を飲むひと時」を作り、少しでも好きな本を読んだり、神様に偽りの無い思いを語るように短い日記を綴ることで、疲れた心の重荷は少し、軽くなるかもしれません。

しばらく一つの事を祈り続けていると、気が付くことがあります。たとえば、起きた出来事に対する自分の考え方の癖などです。ものの見方が歪んでいると、問題ではないことを問題だと感じて勝手に傷つくことがあるのです。時にはこのような新しい気付きだけで苦しみから解放されることがあります。
攻撃的な言葉で批判されたと感じてストレスになっているとき、祈っていると心が変わり、ひょっとすると攻撃ではなく、私のことを真剣に心配してくれたのではないか、武骨な表現だけど、アドバイスだったのかもしれない、と思えたりするのです。心の目が開き新しい見方が出来たということでしょう。苦しみや違和感など自分の感覚に捕らわれ、自己に閉じこもってしまう状態と真反対のことです。
「祈り」は、神という他者に向かって心を開くことなので、自分から解放されていくのです。目には見えませんが、その絶大な効果によって、祈りは、確かに心に力を注ぐものだとわかります。また友人が私のために祈ってくれたので助けられた、と感謝が生まれます。そのうちにストレスは消えています。