
若くして急に亡くなる場合でも、年老いて長い闘病の末に亡くなる場合でも、死者を想う人の気持ちの強さは、生きているときの故人とのかかわりの深さに比例していると言えます。
人が亡くなると、故人との関係が親密で、深ければ深いほど、まずは、別れの悲しさと辛さを味わいます。わたしが高校生のとき、同級生が病気であっという間に亡くなりました。母親が棺の中のわが子にすがりつく姿を今でも覚えています。亡くなった事実を受け止めると、死んだ人の行く先を案じ、永久に幸せでありますようにと祈るものです。否、きっと天国で幸せになっていると確信したい気持ちになります。
そして、死者について想うことは、その生前の姿、言葉やしぐさ、生き方などです。死者を偲ぶということは、その人の生きていたときのこと、それもどちらかと言えばよい思い出に浸って、幸せに感じることです。それは、死者とのきずなを確かめ、強め、そして、いつまでも共にいたいという気持ちの表れ以外の何ものでもありません。

話は変りますが、中学生の頃にキリスト教の洗礼を受けた私に、兄が「教会の葬儀は、哀しみの中にも、何か明るい雰囲気を感じるなー」とよく言っていました。
そう言えば確かに、キリスト教の死者を偲ぶ心には、何処かに明るさが感じられます。ヨーロッパに留学していた時、夏休みには、私の学費を援助してくれていたドイツの恩人のおばあちゃんの家を毎年訪問していました。
そんな或る日、おばあちゃんは私を墓地に案内してくれました。その墓地には、色とりどりの美しい花々が、まるで絨毯のように広がっていました。おばあちゃんのお墓には、戦死したご主人と息子さんの石碑が建っていました。その一画に、ぽつんとある、芝生だけの地面を指差しながら、おばあちゃんが「これは私の場所だよ」と、にこにこしながら囁き、私に片目を瞑ってみせました。おばあちゃんは、きっと「先に天国へ行って待っているよ」と私に言いたかったのでしょう。
フランスの実存主義哲学者であるガブリエル・マルセルは「あなたを愛するということは、あなたは永遠に生きるということだ」と言っています。私の兄が、教会で感じた明るさというのは、きっとこの永遠の愛への信仰と希望の光だったのだと思います。