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いのちの重み

高見 三明 大司教

今日の心の糧イメージ

一人ひとりのいのちは、存在し始めた瞬間からすでに、ほかの誰によっても替えられない尊厳を持っています。なぜなら、いのちは皆、本来、神様に愛されて望まれ、神様から与えられているからです。

ユダヤ教には「一人の人間を救う人は、世界を救う」ということわざがあります。それは、一人の人間の価値が世界と匹敵するほど重いということではないでしょうか。キリストはこう教えています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8・36〜37)

このように、人間のいのちは世界より重いと考えるべきです。

しかし、残念ながら、そのいのちの重さを認めない人間社会も存在します。人間をモノのように利用するだけの、奴隷制度をはじめ、人間を差別するあらゆる制度はその例です。また、戦争やさまざまな方法による殺人、暴力やいじめなども、重いはずのいのちが軽く扱われる例です。人のいのちはそれ自体、重いものです。だから、人間が人間をモノのように軽く見るのは間違っています。

むしろ、わたしたちは、本来持っているいのちの重みを、互いに認め合うだけでなく、さらに重みを加えるために大切にし合わなければならないと思います。大地震や津波で、夫が妻を、妻が夫を、親が子どもを、子どもが親を失うとき、亡くなった人への愛が深ければ深いほど、そのいのちは重く感じられ、いのちが重ければ重いほど、失った悲しみも深いのです。

一人ひとりのいのちの重みは、その人と周囲の人との愛の深さによってさらに重いものになると言えます。互いの愛の強さと深さがいのちの重みを支え、さらにいとおしいものにして行くのです。