宝物にもいろいろあります。誰が見ても、そうだろうと思わせるものもあれば、他人にはわからない、自分だけに価値あるものである場合もあるものです。
修道者になる時、清貧の誓願を立て、自分のものと呼ぶものを持たない私も、一つだけ宝物を持っています。それは、金銭的には全く価値のないものですが、私にとっては、かけがえのない大切なものなのです。
87歳で天寿を全うした私の母は、なくなる1、2年前から認知症になり、許されて岡山から見舞いに訪れた時も、娘の私がわからなくなっていました。介護をしていてくださった病院の人の話では、母は、日がな1日、赤い毛糸の玉をころがしては手繰り寄せ、赤い錦紗の布をいじっては遊んでいるということでした。
見ると、それは紛れもなく、修道院に入る前に私が着ていた赤いセーターの毛糸の残りと、私の羽織の端布だったのです。悲しみの中にも、私は慰められて岡山に戻りました。
その日から約1ヶ月後、母は逝き、臨終に間に合わなかった私は次の日、お礼かたがた母が過ごした部屋の片付けに行きました。そして、そこに残された毛糸玉と錦紗の布、それが、その日以来、私の宝物になったのです。