あれから42年の年月が過ぎた春、この生徒から1通の手紙が届きました。「復活祭に洗礼を受けることになりました。・・謙虚でなかった私は60歳になって、あの春、シスターが語りかけてくださったお言葉に、ようやくお答えすることができます。長い長い回り道の末に。」
信じがたいほどのうれしい知らせでした。高校生だった教え子が60歳になっても、私の一言を記憶に留めていたとは!聖書の言葉が心に響いてきます。「何事にも時がある。」(コヘレト3・1)
学業を終えてからの社会生活、そして結婚。妻として、家庭の主婦として、母として過ごしてきた年月の間、体験した喜びや苦しみ、そのすべてが「洗礼」という量りがたい恵みへの道程であったと言えるでしょう。この「回り道」がけっして無駄ではなかったことを、本人は誰よりも痛感し、感謝して洗礼に臨むと書いています。
私たち各自が到達点に達するよう、神様がみ心に留めておられる道がある、人間の目には無駄な回り道に見えることがあっても、当人にとっては確かな、かけがえのない道であることを信じ、希望して前進することの大切さに気づかされた一事でした。