だが考えてみれば、たった一本の最短距離の道以外はすべてまわり道なのである。そして、常に最短距離を進み続けることなど、現実にはほぼ不可能なのである。距離を移動する場合に限らず、仕事でも勉強でも、人間は一人残らず、まわり道をして生きている。このまわり道ゆえの喜怒哀楽を、私たちは人生と呼んでいるのではないかと思う。
この道は長い。「近道を行く」ことも「早く歩く」ことも、必ずしも求められてはいない。耳を澄ませれば、聞こえるのは「よく歩きなさい」という声だ。どうすればよい歩き方が出来るのかは、教えられない。それは、道に立った者が、それぞれ自分で考えることなのだ。そのために長い時間が与えられているのだろう。その声はただ陽のように照り、雨のように降って、人の心を濡らす。考えこんで立ち止まり、あるいは引き返す人間の足をいたわるように、声は静かに注がれていく。
つい最近、回り道という苗字の方がおられることを知った。東京都内の企業に勤務されている。お名前を拝見しただけで、ほのぼのとした気持になった。ゆっくり歩いてもいいのだ。心をひらき、耳を澄ませているなら。もしかすると、傍らを歩いている人が助けを求めているかもしれない。手を差し伸べた時、そこに何かが宿るかもしれない。それらに気づけるような歩みをしていたいと思う。