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人生は学び

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

ようやく3歳になろうとしている幼子から、イエス・キリストをめぐる人びとの心を学ぶことになろうとは思ってもいなかった。

一時、私は実家の裏にある家を自分で改造して住んでいた。壁をぶち抜き、4つの部屋を一周できるようにして、はがき大の「十字架の道行」を15留まで画びょうで留めた。イエスが十字架上で亡くなるところだけ、絵はがきではなく大きめの十字架をかけた。

弟夫婦には男の子と女の子の双子の子供がいた。彼らは歩けるようになると、私の部屋によく遊びにきた。私は金曜日の3時になると自室で十字架の道行をしていた。めざとく見つけた2人は十字架の道行に参加してきた。子どもにわかるのかなと思っていたが、2人は各留の物語を自分たちなりに理解すると、金曜日とは限らずにやってきて、自分たちの言葉で「十字架の道行」をするようになった。

第4留で、母マリアとイエスの出会いの場に来ると「マリアちゃまが、おかわいそうです」と言った。第7留では、「イエッちゃまが、また、おたおれになりました。エーン、エーン」と2人して声を合わせ、泣きながらバーンと床に倒れた。第12留で、十字架上でイエスが死去なさった場に来ると、踏み台をもってきてそばにいき、一人はポケットから傷薬を出して、茨の冠をかぶせられたイエスの頭部、両手、両足、脇腹のおん傷にぬり、もう一人は絆創膏を出して、両手、両足、脇腹に貼った。回を重ねるごとに、彼らが手当てをするので絆創膏は分厚くなっていった。

私はイエスが茨の冠をかぶせられ、十字架に両手両足を釘付けにされたこと、脇腹を槍で突かれたことはわかっていたつもりだった。しかしながら、私は無感覚な信心業をしていたのだ。幼子ってすごいなと思った。