私は、彼女と結婚する前の11年間を修道士として修道院で生活し、同じ四旬節を過ごしながら、10日ごとに燃えるろうそくが1本づつ増えてゆくのを目の当たりにして、聖務日課を唱え、ミサに与っておりました。この、次第に明るさを増してゆくろうそくは、聖なる金曜日にイエス・キリストが、私達、全ての人の罪を肩代わりして、極度に残酷な拷問に続いて、十字架に手足を太い釘で打ち付けられて死に、続く日曜日に蘇えられた事を示すのです。
聖書にも「復活は無い!」と主張するサドカイ派という人々がいました。だとすると、イエスの復活は特別で、つまり、父なる神は私達のことは放っておいて、ご自分の子であるイエスだけは助けたかったという事になります。
しかし、私達すべての人を愛し抜いてくれたイエスが、死んで、本当に命を失ってまでして下さろうと努めたのは、私達各々の復活、永遠の、尽きない命と幸福のためだということを教会全員は信じています。
復活という途方もないことなどあるわけがない、との意見は、私自身の中にも、ともすれば感じられます。無限、永遠を、どうあがいても感じる事が出来ないから。でも、私は復活を信じます。