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私にとっての復活とは

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

私は無宗教の家で育ち、罪についてはそれなりに分かっていましたが、復活など聞いた事もありませんでした。

妻もまた無宗教の環境の中で育ったそうですが、あたかも何かに促されるように、12〜3才の頃からカトリック教会に行くようになったそうです。

そして、その頃から灰の水曜日と言われる「人はチリから造られチリに戻る」という典礼から始まる四旬節という40日間の典礼をつぶさに眺めながら、私と結婚するまでの20年を過ごしてきたと言っております。

私は、彼女と結婚する前の11年間を修道士として修道院で生活し、同じ四旬節を過ごしながら、10日ごとに燃えるろうそくが1本づつ増えてゆくのを目の当たりにして、聖務日課を唱え、ミサに与っておりました。この、次第に明るさを増してゆくろうそくは、聖なる金曜日にイエス・キリストが、私達、全ての人の罪を肩代わりして、極度に残酷な拷問に続いて、十字架に手足を太い釘で打ち付けられて死に、続く日曜日に蘇えられた事を示すのです。

聖書にも「復活は無い!」と主張するサドカイ派という人々がいました。だとすると、イエスの復活は特別で、つまり、父なる神は私達のことは放っておいて、ご自分の子であるイエスだけは助けたかったという事になります。

しかし、私達すべての人を愛し抜いてくれたイエスが、死んで、本当に命を失ってまでして下さろうと努めたのは、私達各々の復活、永遠の、尽きない命と幸福のためだということを教会全員は信じています。

復活という途方もないことなどあるわけがない、との意見は、私自身の中にも、ともすれば感じられます。無限、永遠を、どうあがいても感じる事が出来ないから。でも、私は復活を信じます。