神父様も、「信仰は一生かけて歩む道です。今すぐ洗礼を授けましょう。しかし折角だから奥様もご一緒に!」と言われました。
その時、私は「とんでもない!」と思いました。カトリック教会には中世ヨーロッパの魔女狩りや免罪符など、権威的でかび臭いイージが強くて偏見を抱いていたからです。
しかし私も常に「確かな心の支え」を求めていました。両親を早く失ったので、人の命のはかなさ、この世の切なさを心のひだに染みこませていたからでしょう。
長女の入園式で園長先生が「ご父兄の皆様はお子様をキリスト教の愛の精神での教育を!とこの園を選ばれたと思います」と挨拶された時、私は頭をガーンと殴られた気がしました。ただ園が近かったから入れたからです。修道女姿の園長先生の毅然としたお姿に打たれ、私は生意気にも批判がましい好奇心で、母親対象の聖書研究会に入りました。
そして少しづつ心が開かれて「私はありのまま、神様に愛されている・・・」と信じる気持ちに変えられて、感謝の内に、夫と2人の幼児をつれて一家で洗礼を受けました。
長女の入園からわずか3ヶ月後のことでした。