先日、ある新聞記事を目にした。それは、東日本大震災で被災された人々が入居している仮設住宅での児童虐待の増加についての記事であった。いつ、ここを出られるのか、これからの生活はどうなるのか、という先が見えない不安の中、児童虐待が増加している、というのだ。希望を失い、待つことが苦痛になっている人々の、心の叫びをかいま見たような気がした。
哲学者の鷲田清一さんは、角川選書より刊行された『「待つ」ということ』において、次のように問いかける。待つことができなくなってしまった結果、「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性」を私たちは無くしてしまったのではないだろうか。それだけではなく、「偶然を待つ、じぶんを超えたものにつきしたがうという心根」も失ってしまったのだろうか、と。
気の遠くなるような年月、ひたすら救い主を待ち望んでいた、いや、待つしかなかったイスラエルの民に、次のような言葉が与えられた。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ 9・1)
聖書は告げる。ひたすら待ち望むことの先に光があることを。そして、救い主の誕生であるクリスマスの訪れを待ち望むとは、希望を持ち続けることであり、未来を信じることなのだ、と。