それは、物質的富への執着を捨てたフランシスコの我欲と自我からの「離脱」と「悟り」の精神に魅力を感じているからのようです。
このような仏教的・日本人的な「清貧による悟り」の心は、「今を生きる平常心の悟り」に繋がっているようです。
しかし、このような日本人的悟りの心は、どちらかと言えば静的でスタティックな心境のように感じます。それに対して、フランシスコの悟りは、同じ「今を生きる悟り」にしても、もっとダイナミ ックな生き方に繋がっているような気がします。
或る時、レオという弟子が岩の間を流れる澄み切った清水のようになりきれない自分を悲しんでいた時、フランシスコは、レオに優しく語りかけます。「レオ、自分の心が清いかどうかそんなに心配してはいけない。まず自分の空しさをありのままに受け入れなさいそこに神の愛が満たされるのだ。誰も神のようには愛せない。私達はそれに倣うように努力すべきだ。今までのところ、私達はまだ何もしていない。だからこれから始めよう」。
フランシスコの平常心の根底には、キリストが教えた「相手を思いやるアガペの愛」があり、自我に死に、自我を空っぽにして、神の愛の証しとなる信仰が秘められていたのです。